人間も含めて、全ての存在には上も下もありません。
相手と自分を比較し、自分の方が上なのだと優越感に浸ったり、自分の方が下だと劣等感に苛まれたり、自分と他者を比較することで一喜一憂するほど無意味で無駄なことはありません。
たとえば、B層と呼ばれている人たちは学歴、収入、地位、社会的ステータス、容姿など、支配層から植え付けられた価値観を基準にして優越感や劣等感を抱いたり、中には出身地や年齢にまで拘る人もいたりします。
人間的な要素は無数にあるはずなのに、自分が重視しているほんのわずかな価値観だけで、人に優劣をつけたり、自分と他人を比較し、優越感や劣等感を抱いていると、視野が狭まり、人間の本質を見抜けなくなってしまいます。
会社員時代、仕事ができるか?できないか?だけでその人の優劣を決める極端に偏った思考の人がいました。
彼は仕事では優秀でしたが、自分より後輩でも仕事ができれば一目を置き、自分より先輩でも仕事ができなければ容赦なくつっかかっていました。
しかし、人それぞれ得意不得意が異なるので、自分が重視する価値観を基準に他者に優劣をつけることが間違いであることを彼は気づいていませんでした。
その後、彼は人に優劣をつけ、人によって態度を変える欠点が露見し、上司や周りから敬遠されるようになりました。
高学歴でも仕事が不得意だったり、
社会的ステータスがあっても容姿にコンプレックスを持っていたり、
大富豪でも人から敬遠され人脈がなかったり、
容姿端麗でも性格が激悪だったり、
不良とよばれていても義理人情があつかったり
穏やかで愛想が良くても義理人情のかけらもなかったり、
社会の嘘から目覚めていても覚醒度だけを重視し愛を知らなかったり
愛で溢れていても思考停止で騙されていたり、
誰もできないような発明をしても謙虚さがなかったり、
…etc
誰もが羨むような完璧な人間を探すのは不可能と言っても過言ではありません。
なので優劣をつけるのは無意味なことなのです。
また、見える部分だけで、その人の全てを知った気になり、勝手にこの人はこういう人だと短絡的に決めつけるのは、人間関係にも悪影響を及ぼし、物事を客観的に見れなくなってしまいます。
人は誰もが何かしらの闇を抱えて生きています。
容姿端麗な人やモテる人は、関わりたくもない異性に目をつけられたり、付きまとわれたり、執着されたり、逃れるのに死ぬほど苦労していたり、
大金持ちでも、心が満たされないために充足感を得られず、常にお金を欲しがり続け、財産が奪われる恐怖に怯え、誰に対しても金目当てではないか?と疑心暗鬼になって人間不信の孤独地獄に陥っていたり、
学校の成績がトップで優秀でも、ほとんどの時間を勉強に充てているために自由な時間が全くなかったり、周りからの妬み嫉みや、誰かに追い抜かれるかもしれないというプレッシャーで死にそうになっていたり、
大企業に勤めていても、自由な時間がほとんどなく、身体がボロボロになり過労死寸前まで追いつめられていたり、
売れている芸能人やビジネスで大成している人でも凋落して収入がゼロになるかもしれないという恐怖と隣り合わせで生きていたり、
自給自足で生きている人でも、そこにたどり着くまでにさまざまな困難を乗り越え、血を吐くような努力をしているかもしれません。
これらはほんの数例ですが、人が妬むような何かを得ている人は、見えないところで自由な時間を犠牲にしながら、ほとんどの人が真似できないレベルの過酷な努力をしていたり、人に言えないような苦悩を味わっていたり、葛藤していたりするのです。
なので、人の見える部分だけを見て、比べたり羨ましがるのは無意味なことなのです。
※上記の記事では数例のたとえを挙げましたが、支配層が人々に植え付けた人間の本質とは全く関係のない学歴、お金、地位、社会的ステータス、容姿などの偽の価値を手に入れることを推奨しているわけではありません。
(過去記事 努力することを間違えていませんか?)